浅海邪子
登場人物紹介……()内は年齢。
和寸《かずとき》(26)……探偵。
伊江《いえ》(28)……探偵助手。
不藤未来《ふどうみき》(34)……伊江の姉。
不藤了《あきら》(36)……その夫。不動産営業。不藤ホテルオーナー。
城崎千鶴《じょうざきちづる》(17)……被害者。片腕の天才アーチェリー選手。
城崎千里《ちさと》(38)……その母。
皆川聖《みながわひじり》(36)……義肢研究員。主任研究員。佐々倉の教官。
佐々倉洋介《ささくらようすけ》(23)……義肢研究員。千鶴の交際相手。
大倉正蔵《おおくらしょうぞう》(47)……不藤ホテル支配人。
*
唐突な話だが、私は名探偵というやつが好きではない。彼らは、真実を知る為ならどんな犠牲も払うからだ。その真実がたとえ依頼人の望むものではなかったとしても、彼らには関係はない。彼らは依頼人に『私は真実を暴きます』とあらかじめ宣告するのである。フェアといえばフェアであるが、これは私の考える探偵の流儀とはかけ離れているのだ。
私にとって探偵とはビジネスであり、飽くなき探求心の表れではないのである。だから、依頼人には真実を伝えることが絶対だ、なんて考えは持ち合わせていないし、伝えないこともあれば、嘘も吐く。ただ、それは依頼人にとってそれが最善だと考えるが故のことである。
と、偉そうなことを言ってはみたものの、名探偵には王族やら大富豪やらそんな方々からの依頼が舞い込んでくるわけで、ビジネスに徹した私のところは始終、閑古鳥が鳴いている。これが結果である。
申し遅れたが、私の名前は和寸という。探偵業を営んではいるが、先に言った通り客足は芳しくない。そんなことで生活が成り立っているのは、ひとえに助手の伊江のお陰である。彼は皇族と親縁関係にある家に育った。幼少時代から金に困るなんてことはない生活を送り、愛車は黒のアストンマーチン・DBS。今は幾つかの物件の家賃収入がある。さらに、私の探偵事務所は伊江の所有する物件の一階にあたり、居住スペースとして二階まで占拠させてもらっている。
そういう訳で、私は助手に頭が上がらない。今考えてみると、名探偵が好きではないのは、探偵としてのプライドなり、流儀なりではなく、ただの嫉妬のような気もしてくるが……まぁ、無駄話はこれくらいにしておこう。
今回の事件は、私にとって非常に難しい事件であった。事件の真相自体はさして難しいものではない。現場の一見不可能な状況が、ただ一つの道筋を示していたからだ。では、何が難しかったのか――
筆者としては、それが伝わることを祈るばかりである。
*
穏やかな日差しの差し込む落ち着いた空間。訪ねてくる者はおらず、電話すら鳴らない。こうも昼寝に理想的な状況を他には思い当たらないだろう。現に伊江は朝から机に突っ伏している。まぁ、これは今日に限った話ではないが。つまり、私も寝たいということだ。
私はぬるくなった珈琲を飲み干し、扉に掛かったOPENの掛札を裏返しに席を立った。眠い。よたよたと見慣れたドアの前まで歩いていき、ドアを引っ張った。
――カランカラン。
軽快な音が頭を僅かに現実に引き戻した。しかし、ドアの向こうから差し込む光で、空は見上げるまでもなく眩しいことが分かり、否応なしに視線が地面に落ちる。私は手探りだけで掛札を裏返し、早々と逃げるように部屋に戻ろうとしたのだが、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「あ、ずっくんだ」
振り返ったが、眩しくて良く見えない。だが、声の主は不藤未来だろうし、『ずっくん』というのは多分自分のことなんだろうと理解した。
「伊江さんなら、中で寝てますよ」
何故ここで伊江が出てくるかと云えば、不藤未来は伊江の姉であるからだ。姓が違うのは彼女が結婚しているからで夫は了という。伊江に見合いを勧める為にこうして時々会いに来るのである。
「あ、そうなんだ。でも、今日は見合いの相談じゃないの」
「はぁ、それじゃ一体何の用ですか?」
「何の用って。ここ探偵事務所でしょ? 依頼よ、い・ら・い」
そうか。そういえばそうだった。
「珍しいこともあるもんですね。何かあったんですか?」
「私じゃないんだけど……」
と言って、不藤未来が体を横に少し傾けると、後ろに黒い格好をした人が見えた。シルエットから女性だろうと推測した。お互いに軽く会釈する。
「えっと、この方はね――」
不藤未来の声のテンションが上がった。ほっておけば長くなりそうだ。
「お話は中で伺いますよ、どうぞ」
私は扉を背にして二人を室内に誘導した。ありがとー、という元気な声と、失礼します、という静かな声が前を通り過ぎる。
どうやら暫く眠れそうにないな、と私は掛札を裏返した。
*
部屋に入り、やっと二人の容姿を認識出来た。
白いワンピースに鍔の大きな白い帽子を被っているのが不藤未来。手には日傘を持っている。依頼人らしき女性はブラウスもフレアスカートも髪も黒く、ただ肌だけが白い。ここまで二人で歩いてきたのなら、きっと目を惹いただろう。 「どうぞ、お掛けになってください」
私は冷蔵庫から麦茶を取りだし、来客用のグラスに注いだ。
「で、今日はどのようなご依頼でしょうか?」
麦茶の入ったグラスにストローを差す。
「どこから話したらいいのかなぁ……」
依頼人ではなく不藤未来が話し始めた。グラスを盆に乗せ、テーブルまで運ぶ。
「そうですね。じゃあ、まず隣のご婦人の紹介をしてくれませんか?」
コースターを二人の前に置いた後、そこにグラスを置く。
「あ、そうだった。ごめんなさい」
私は向かいのソファに腰掛け、話を促した。不藤未来の隣の女性は俯いている。
「城崎千鶴ちゃんって知ってる?」
「そりゃあ、知ってますよ」
城崎千鶴。幼い頃からアーチェリー選手であった父親の訓練を受け、天才少女として注目を浴び、ジュニアの世界選手権等で賞を独占していた少女だ。しかし、十四歳の時、今から三年前に突然の事故によって左腕を肩から根こそぎ失った。さらにはその事故で父親も失っていたはずだ。それ以後、めっきり姿を見せなくなっていたのだが、半年前の大会に電撃復帰。失った左腕の代わりに義肢を操り、見事優勝。それ以後の大会でも連続優勝を続けている。何故こんなに詳しいのかと云えば、先日彼女のドキュメンタリーをテレビで見たばかりで、そうでなくても連日のようにスポーツ新聞各紙や様々な週刊誌が来年のオリンピックがどうのこうのと騒いでいるからだ。今の日本では彼女のことを知らない人の方が珍しい。
不藤未来はいつも通り微笑み、私に言った。
「実はこの方、千鶴ちゃんのお母様で城崎千里さん」
紹介された女性が少し顔を上げた。その容姿は一児の母を感じさせない。
「城崎千里です」
発せられた声は何かを押し殺した様にとても落ち着いていた。残念ながら良い予感はしないが、そこは仕事である。初めまして、と笑顔を作る。
「で、何があったのですか?」
私がそう言った瞬間、城崎千里のすべてから感情が失われていくのを感じ取った。
「千鶴が――殺されたのです」
城崎千鶴の死亡が最初に確認されたのは、今より一週間前の四月三日、午前七時四十五分ごろ。前日から宿泊していた不藤ホテルの五階の自室、五○七号室でのことだった。
同日七時三十分。隣室の五○六号室に宿泊していた母親の城崎千里が、予定の時間になっても起きて来ない千鶴に内線を掛けたのだが、返事がない。仕方なく隣室まで起こしに行ったのだが、オートロックで鍵は閉まっており、ドアをノックしてみたものの、やはり返事はない。城崎千里は、万が一のことを考え、フロントに頼んで五○七号室の鍵を開けてもらうことにした。
同日七時四十分。ホテルの支配人、大倉正蔵が鍵を持って来た。大倉正蔵が鍵を開けたところ、室内から異様な臭いがする。不審に思った二人が恐る恐る室内に入ると、紅く染まったベッドの上に仰向けになった城崎千鶴がいた。しかし、それは見るからに正常ではなかった。切り刻まれた衣服は紅く滲み、幾つもの線を引いていた。ちょうど心臓の辺りにはナイフが突き立てられ、城崎千鶴の死を示していた。
そして、何よりも異様だったのは、右手首から先、つまり右手がなくなっていたことだった。
鑑識によって、死亡推定時刻は三日の午前三時前後と特定された。致命傷は心臓への一突きだったが、実は胸には背後からも差された痕跡があり、そちらの方が致命傷だったらしい。
これが事件発覚の最初の状況を簡単にまとめたものである。ここまでだと確かに残忍ではあるものの事件として特に不思議な点はないのだが、問題はこの後の話であった。
「明らかに他殺ですね」
「そうなの。警察もそれで捜査を進めてるみたい」
初めこそ城崎千鶴が話していたものの、途中からは不藤未来が話していた。まぁ、無理もないか。今も俯いたまま静かにしている。
「でも、廊下に監視カメラはあったんでしょう?」
「それがね、言い難いんだけど。千鶴さん、凄い人気だったでしょう?だけど、実は付き合ってる人がいるんだけど、マスコミなんかにも追われてて……」
殺人事件の方が言いにくいとは思うのだが、変なものだ。
「要は密会の為に一晩監視カメラを止めてもらった訳ですね。でも、よくそんなことができましたね」
「私が未来さんに頼んだのです。了さんのホテルに宿泊させてもらい、一晩だけ監視カメラも止めてくれないかと。了さんを信用してないわけではないんですけど、そういうテープが残っていると、マスコミに売られる可能性もあるので」
城崎千里は小さいながらもはっきりとした声で言った。
「で、誰なんですか? そのお相手というのは」
「佐々倉洋介さんといいます。義肢の研究をしてる方で千鶴もそこでお世話になっていました」
「じゃあ、その人が疑われてるんですね。犯行は物理的には可能だし、動機も警察が何か探すでしょうし」
しかし、なんで態々自分たちの所に来たのだろうか。聞けば聞くほど、話が分かりやすくなってくる。警察に任せておけば良さそうなのに。
「姉さん、何を隠してるんだい?」
突然、第三者の声が割って入る。声の方向を向くと、そこには机に顔を埋めたままの伊江がいた
「いつから起きてたんですか?」
「始めから起きてるよ。久々の依頼を無下にするわけないだろう」
机の上に伏せている状態で礼儀もなにも無いと思うが、そんなことを言い合う気もなかったので流した。 「さっきから話を聞いてるのに全然謎がないじゃないか。どうせ姉さんのことだから勿体振っているんだろうけど、そろそろつまらなくて寝てしまいそうだ」
「分かったわよ。えっと、確かに佐々倉さんが疑われてはいるんだけど、ナイフから採取された指紋がね、全く違うのよ」
不藤未来はつまらなそうな顔をしている。主導権を奪われたのが気に食わないんだろう。反対に伊江は身体を起こし、ほぅ、と目を見開いている。
「その指紋は誰のなんですか?」
「左手の指紋なんだけどね。事件関係者にそれに該当する人がいないの。警察は、佐々倉さんが誰かの指紋が付いたナイフを使った、と考えたみたいだけど」
確かに手袋をはめれば、自分の指紋は付かない。しかし、あれだけの作業(特に右手の切断)をこなせば、始めからあった指紋は消えてしまうだろう。まぁ、別に道具を用意した可能性は大いにあるが。かといって、ここで新たな第三者を想定した場合、どうやって部屋に入ったかが問題となる。仮に城崎千鶴と親しい者であれば、中から鍵を開けてくれるだろう。しかし、全くの見ず知らずの人の場合、少なくとも中から鍵を開けてくれることはない。
事件関係者に該当者のいない指紋。事件該当者というのがどれほどの範囲を示しているのかは分からないが、大方、城崎千鶴、城崎千里、佐々倉洋介、大倉正蔵の四人を示しているのだろう。
「佐々倉とかいう男が指紋をなんらかの形で偽装したか、それとも他の人間が部屋に入ったか……」
伊江が机の周りをぐるぐると回りながら、呟いている。三周程したところで立ち止まった。
「さて、考えるのはこれくらいにして、今すぐそのホテルに向かおうじゃないか。まずは現場検証といこう。姉さん、義兄さんに連絡しといてくれる?」
伊江はずいぶんと乗り気だ。これが名探偵気質というやつか。しかし、何か忘れている気がする。そうだ――切られた右手。右手はどこに行ったのだろうか。
*
「初めまして、大倉と申します」
「義兄さん、いや、不藤さんから話は聞いていますね。さっそく頼みます」
不藤了は手際よくことを運んでくれたようだ。ホテルに着くと、大倉正蔵がすぐに四人を例の部屋まで連れて行ってくれた。
「ちょうど昨日警察が帰ったところですよ。運が良いですね」
この男は少し白くなった髭を擦りながら、そう言った。支配人というと厳しいイメージがあるが、意外に気さくな人間なんだろうと豪華な装飾品を眺めながら考える。
「ここです。どうぞ」
鍵を開け、先に大倉正蔵が中に入った。私たちもそれに続く。普通の部屋である。ベッドは既に取り替えられているが、床の染みが実際に事件があったことを物語っている。部屋自体にはこれといった特徴は無く、入って向かいがベランダになっている。そのベランダへと通じるスライド式のガラス戸は内側からのみ鍵を掛けられるようになっている。
「事件のあった朝はもちろんここの鍵は閉まってたんですよね?」
「はい。それは私が確認致しました。間違いございません。長年やっているとあんな時でも鍵や戸締りの確認をしてしまう様です」
部屋は特に問題はないようだ。私は千里さんに尋ねた。
「では、事件のあった夜に千鶴さんが何をしていたか、知っている限り、教えてくださいませんか。それと、貴方が何をしていたかも」
「千鶴は、昨日は練習が終わってからなので、夕方の六時前にここに着きました。それから夕食の時間までは部屋で自由にしていたと思います。夕食の後、十時頃から佐々倉さんの教官の皆川聖さん、という方と私と千鶴とで義手のメンテナンスや調子などについて一時間ほど話をしましたと思います」
皆川聖。義肢研究員か。思うところもあるし、後で話を聞きに行った方が良さそうだ。
「それで皆川さんは帰られたんですけど、私は次の日のスケジュールの打ち合わせを千鶴としていました。十一時半ごろに佐々倉さんがいらっしゃったので、私は入れ替わる形で自分の部屋に戻りました。ベッドに着いたのが深夜の一時頃だったと思います。それからはずっと朝まで寝ていました。」
「じゃあ、夜中のアリバイを証明してくれる方はいないんですね?」
「はい。それは……」
「いいえ。仕方ありませんよ。それだけで犯人になるわけではありませんから」
そう言った次の瞬間、視界が黒に染まった。
「なんだッ」
最悪の事態を想定し、僅かに身構える。しかし、それは杞憂に終わった。
「あぁ、ごめんごめん」
その声と同時に視界に光が戻る。
「伊江さん、何してるんですか」
「いやぁ、これをここからどかしたら勝手に電気が消えちゃってさ」
と言いながら、伊江は入り口の入ってすぐの壁を指差していた。その部分はちょうど凹んでおり、中のトレーの上に鍵が置かれている。
「ここは全室そういう仕組みになっています。重さに反応するようになっていて、鍵をそこに置いとくと、電気が点くようになっているんです。だから、こうやって」
といって、大倉正蔵は鍵を取る。
「電気が消えてしまいます」
また一度電気が消え、すぐにまた点く。伊江はじっと鍵を見つめていた。
「あの日の朝、部屋に入った時も鍵はそこにあったんだよね?」
「えぇ、それは間違いないです」
「ふぅん、面白いね。じゃあ、大倉さん。ロビーの監視カメラの映像を見せてくれるかな。四月二日の二十三時から三日の四時まで。あぁ、姉さんとご婦人は今日はもう帰っていいですよ。また明日来てください」
五時間分も見るのか。気が遠くなってきた。本当なら昼寝する予定だったのに。ついてないな。
*
結局、昨日は監視カメラの映像を五時間分、二回もチェックした。しかも、二回目は自分一人で。結局、怪しい人物はいなかった。ほとんど全ての人を大倉正蔵に確認してもらい当日宿泊していた人だと分かった。皆川や佐々倉らしき男も城崎千里の証言通りの時間にやってきては帰って行った。佐々倉らしき男が深夜の三時過ぎに帰っていく映像を見て、死亡時刻と重なるな、と感じたくらいしか怪しいものはなかった。
しかし、部外者の犯行という線はかなりの確率で消えた。故に、伊江の思考は自動的に佐々倉がどうやって指紋を偽造したか、という考えに移行しつつあるようだ。昨日もビデオを確認しながら、延々とその考えを聞かされた。
そして、今日は国立義肢研究センター――通称『義肢研』――に来ている。勿論、佐々倉と皆川から話を聞く為である。不藤未来、城崎千鶴の二人も一緒だ。
「お待たせしました」
低くゆったりとした声が応接室に響いた。
「皆川聖と申します。こいつが佐々倉洋介です」
痩せぎすな皆川の隣にいるせいで余計にそう見えるのだが、がっちりとした体格の青年が無言で頭を下げた。私も軽く頭を下げ、挨拶代わりに質問した。
「千鶴さんの義手は貴方が造られていたそうですね」
「はい、ちょうど二年ほど前ですかね、彼女の方から連絡があったのです。ここで開発していた義手は性能には自信があるのですが、かなり特殊なものでして、動かすだけでもそれなりの訓練が必要なんですよ。でも、うちら研究者は忙しくてそんなことをする時間もないものですから。千鶴さんの申し出には本当に助かっていたんですよ。だから今回のことはホントに……」
皆川は苦い顔をした。
「そんなに扱いの難しい義手っていうのは、どれくらい凄いものなんですか?」
「筋電義手ってのがあるんですけどね。それは脳からの命令を受けた時に発する微弱な電流を感知して義手を操る、っていう感じなんですよ。基本的な仕組みは、それとほとんど同じなんですけど、ここでは運動性能に特化させたんですね。ハード的に頑丈にし、かつ握力の強化、さらに軽量化。彼女のように使いこなせれば、アーチェリーすら出来ます」
「見た目はどんな感じなんでしょうか?」
「あ、私、見てみたい」
不藤未来が元気よく手を挙げた。
「あぁ、じゃあ。佐々倉君、取ってきてくれるかな?」
分かりました、というと、佐々倉は部屋から出て行った。
「まぁ、見れば分かりますけど、うちのやつは見るからに機械って感じですよ。でも、最近の装飾技術ってのは凄くてね。装飾義肢なんかだと質感や血管の浮き上がり、さらには指紋まで細密に作りますからね。多分、千鶴さんも持っていましたよ、ねぇ、千里さん」
「そうですね。以前は訓練だからとこちらで造ってもらったものしか使わなかったのですけど、最近ではそういったものを使わないと目立ってしまいましたので」
「それは指紋まで再現したものでしたか?」
「いえ、そこまでは。特に必要もないので」
伊江が話に割って入ってきたが、あてが外れた様だ。つまらなそうな顔をしている。
「お待たせしました。これがここで開発している義手です」
しばらくすると、佐々倉が戻ってきた。手には鋼色の腕を抱えていた。金属の骨組みの周りを複雑にチューブが絡み合い、最終的に五本の指(金属)の根元に吸い込まれている。
「うわぁ、凄い」
「でしょう? まぁ、その辺りは私たちの専門ではないですから」
驚く不藤未来を見て、皆川は愉快そうに笑った。
「他に何か聞きたいことはありますか?」
「いえ、ありがとうございました。次は佐々倉さんに話を伺おうと思うので」
「そうですか、では。お先に」
そう言って、皆川は部屋を出て行った。私は佐々倉の方を見る。
「二日の午後十一時半頃、不藤ホテルの五階、五○七号室の千鶴さんの所に行かれましたね?」
「はい」
「何をしていたか。詳しく教えてくれますか」
「確か部屋に入ると千里さんがいました。けど、気を利かせてくれて、すぐに入れ替わるように出て行きました。それからは二人で色々話しました。お互いの最近のこととかマスコミが落ち着いたらどこに行きたいかとか、彼女の手が若いころのお父さんの手に似てるとか。結構話し込んでしまいました。多分二時頃だったと思います。久々に二人っきりになれたのが嬉しくて。」
佐々倉は少し俯いて話している。前髪でよく表情は見えないが、きっと恥ずかしいのだろう。
「それからは、彼女、昔の傷もあるから体を見られるのが好きではないみたいで、電気を少し消して……」
「あぁ、そこは言わないでも分かりますから。その後の話をしてもらっていいですか?」
佐々倉はそう言われて余計に恥ずかしくなったようだった。
「すいません。えっと、確か、その後、彼女は睡眠薬を飲みました。コップに水を入れたのを覚えてます。最近、不眠症らしくて。それで、彼女が寝たのを確認して、自分はそこで帰りました。家に着いたのが四時過ぎだったので、三時位に部屋を出たんだと思います」
話終えると、彼は顔を上げてこっちを見た。次は何だろう、といった具合に見える。
「千鶴さんに何か不思議な点やおかしな点はありませんでしたか?」
「関係ないとは思いますけど、さっきも言った様に昨日は珍しくお父さんの話をしてくれました。私の手はお父さんの手に似てるんだって、と嬉しそうに話してくれました。他にも、お父さんと千里さんが凄く仲が良かったらしくて、私たちもそうなれたらいいね、とか」
「そうですか。千里さん、千鶴さんの手は似ていたんですか?」
「あ、はい。あの子は顔は私に似たんですけど、すらりと伸びた指はもう若いころの夫にそっくりでした」
そう語る城崎千里の顔はどこか痛々しかった。
「あんなことがあったばかりなのに、今日は本当に有難う御座いました」
「いえ、僕も事件の真相を知りたいですから。また何かあったら呼んでください。それじゃあ、入口まで案内しますね」
強い青年だ、と思った。城崎千里と不藤未来と何か話している。きっと不藤未来のことだから励ましているのだろう。
「じゃあ、ありがとうございました」
「また趣味で来たときはよろしくお願いしますね」
と、不藤未来は笑顔で言った。こう見えて彼女は理系なのである。
「あぁ、そうだ。佐々倉君。千鶴さんの部屋を出る時、部屋の鍵はあったのかな?」
伊江が思い出した様に言った。
「え? あ、……はい。あったと思います」
「そうか。うん、難しいな」
それだけ言って、伊江は愛車のアストンマーチン・DBSに乗った。確かに難しい問題になってきたな、と私は助手席に座って頭を回転させた。
*
次の日、私たちは城崎邸にいた。ここまで調べた上での私たちの推理を話しておく為だ。事務所でも良かったのだが、城崎千里が、是非、というのでやってきたのだった。
城崎邸は、確かに二人で住むには大きな家だが、圧倒されるような豪邸ではなく、その辺りに千里の性格が表れている気がした。今私たちのいるリビングには、高そうな置物や様々な剥製が飾られているのだが、何かアンバランスといった感じがする。特に――
「この剥製は凄いですね」
そういって私は一つの剥製を指差した。私より大きな熊の剥製である。二メートル近くあるだろう。
「そうですね。これは夫が作ったものの中でも一番大きいものだと思います」
「ご主人がお一人で造られたんですか?」
伊江が熊の手を握っている。不藤未来は携帯のカメラで写真を撮っているようだ。
「はい、ここにあるものは全部。夫の趣味だったんですよ。選手を辞めてからは、娘に指導するか狩猟に行って剥製の題材を見つけてくるかのどっちかでしたから」
城崎千里は、昔を思い出しているのだろう。何か失ったものを嘆くようなそんな表情をしていた。
「今日は、事件についての考察です。現時点での私たちの予想だと思ってください」
不藤未来は大きく頷き、城崎千里は、はい、と小さく言った。ソファに踏ん反り返っていた伊江が立ち上がる。
「犯人は佐々倉洋介」
「ちょっと、伊江さ――」
伊江は私を無視して続けた。せっかくなので、彼に任せることにする。
「そうすると、犯行はとても簡単で、何のトリックも必要もなくなる。彼が部屋を出たのは深夜の三時。これは監視カメラの映像からも間違いない。ね、和寸君」
それはそうだ。眠かったとはいえ二回も確認したのだから。
「千鶴さんの死亡時刻は深夜の三時前後。殺してから部屋を出たとすれば、まず時間的な辻褄が合う。そして、そう考えると、問題は誰のものか分からない指紋だ。けど、これも簡単に説明がついてしまうんですよ。切られた右手。覚えていますか。千鶴さんの遺体には右手が無かったのです。彼は彼女を殺した後、右手を切断。そして、胸に突き立てたナイフを右手に握らせる」
「でも、佐々倉さんがそんなことするはずが」
不藤未来が分かっていたけれども、それでは……といった表情をする。
「しかし、これではおかしい。どうも噛み合わないんですよ。第一、彼の家やホテルから自宅までの道のりは散々捜索されたはずだ。それでもまだ見つかっていない。血塗れの手なんてそうそう隠せたもんじゃないさ。それに、そう。一番おかしいのは、見つかった指紋は左手のものなんですよ」
「じゃあ、違うの?」
「いや。彼は義手の専門家だ。最近の装飾義肢は指紋まで細工出来るらしいからね。それを使ったってことも考えられるよ。多分警察はその線を疑っているんだと思う。でも、そうなったら、ますます右手を切った理由が見当たらない。警察は、猟奇的だとかなんとかで片づけているんだろうけどね」
伊江は納得のいかない顔をしている。
「だから一度、彼が犯人でない、と仮定してみた。そうすると、あの部屋は密室だ。鍵の掛かった部屋に睡眠薬で眠った城崎千鶴。誰かが訪ねて来てもきっと気付かなかっただろうね。つまり、中から開けてもらって入るなんてことはあの後には不可能なんだ。だから、鍵が掛かった部屋の中にどうやって入ったか?それが問題になってくる。そこで引っ掛かったのが、あそこのシステムさ。あの部屋は鍵を所定の位置に置いておかないと電気が消えてしまう仕掛けになっていた。けど、置くものは鍵でなければいけないんだろうか。あれは重さを感知して作動していたようだから、必ずしも鍵である必要はないんじゃないか。つまり、以前に部屋を出入りした人間が、何か代わりのものを置いて千鶴さんの部屋の鍵を手に入れることが出来たのです。そう考えれば犯人の幅は急に広がる」
「ほんとだ、凄い」
不藤未来は感心しているが、しかし――
「しかし、これにも致命的な問題がある。佐々倉君は部屋を出る時、鍵がそこにあることを確認しているんだ。その証言が真実なら、つまり、鍵は誰かに奪われていなかったということになる」
そこで、また皆の顔が暗くなった。
「そうすると、やはり、残念ながら佐々倉洋介が犯人になってしまうんですよ」
*
この日の目覚めは最悪だった。前日にお酒を飲み過ぎたとか徹夜明けだとかそういった身体的な理由からではない。最悪の知らせで一日が動き始めたからである。その知らせが来たのは、依頼があってから三日後のまだまだ微睡(まどろ)みの深い昼前の時間だった。
「はい……こちら和寸探偵事務――」
「和君? あのね、大変なの」
不藤未来の声だ。何か慌てているように感じる。
「えっとね、佐々倉さん。一昨日会ったでしょ? あの人が死んじゃったの」
私はその瞬間に嫌悪感に襲われた。脳内が黒く犯されていく。
「殺されたんですね」
「えっ、うん」
「分かりました。じゃあ明日の昼過ぎに、千里さんを連れてうちに来てくれますか」
「ねぇ、どうなってるの? 和君は分かってるの?」
「明日になれば分かりますよ」
私は受話器を置いた。脳内の黒いものが増幅していく。
「伊江さん、佐々倉さんが殺されました」
「そんな訳が……。本当なのか?」
伊江は驚いている。
「本当ですよ。流石の貴方も予想していませんでしたか?」
「和寸君――」
伊江は思考を開始した。あぁ、やっと終わるのか。やはり物語を終わらせるのは名探偵の役目らしい。自分如きが足掻いたところで、無駄だったのだ。でも、終わりなんていらないのだ。ずっとあのまま、何も知らないことが幸せであるはずなのだ。けれど、それももう終わりだ。
「もう気付いたでしょう。終わらせてください」
「――君は嫌な人間だな、和寸君」
そんなこと、自分が一番承知していますよ。名探偵さん。
*
穏やかな日差しの差し込む落ち着いた空間。訪ねてくる者はおらず、電話すら鳴らない。あの日と同じそんな日だった。
――カランカラン。
そんな軽快な音もただただ沈んでいく。
「ようこそお越し下さいました。またその辺りに座っていてください」
私はまた二人に麦茶を用意した。
「ねぇ、どういうことなの?」
「今からそれをお話します。伊江さん、お願いします」
伊江は机から脚を下し、立ち上がる。
「昨日の朝、佐々倉洋介が自宅で殺されているのが分かりました。これは皆さんもご存じのことだと思います。そして、もう一つ、凶器のナイフには千鶴さんの時と同じ指紋が発見されたんです」
「うそっ、じゃあ……」
「そう、犯人は千鶴さんの時と同じ人間です。でも、それは今回の事件を解くのに必要なものではないんですよ。では、犯人はどのようにして千鶴さんを殺したのか。前に話した時、私は佐々倉君以外の人間が犯人だとすると、あの部屋は密室になる、と言いました。まずは、そこから説明しましょう。鍵の掛かった部屋に入る為には鍵が必要です。そして、その鍵を手に入れる方法としては、フロントからマスターキーを奪う、もしくは、前に言ったような方法で鍵を手に入れる等です。まず、前者は大倉さんが犯人の場合以外はないと思って良いでしょう。では、後者の場合はどうか。あの部屋の仕掛けは、鍵をあのトレーの上に置いていなければ電気が点かない、というものです。だから、鍵を何か別のものと入れ替えるという方法を思いついた。しかし、それでは佐々倉君の証言と食い違ってしまう。しかし、どうでしょう。佐々倉君は鍵を見ただけなのです。それが千鶴さんの部屋の鍵だということまで分かったでしょうか。入れ替えられたのは鍵と何かではなく、鍵と鍵だったんですよ、ねぇ、千里さん」
城崎千里は俯いたまま動かない。
「あの日、千鶴さんの部屋に入った中でこのホテルに宿泊していたのは貴女だけです。そして、貴女は佐々倉さんと入れ替わりに部屋を出る時、千鶴さんの部屋の鍵を自分の部屋の鍵と入れ替えたんです。そして、佐々倉さんが部屋を出た後、鍵を使って眠っている千鶴さんを殺害した」
「ちょっと、待ってよ。それじゃあ、指紋は? あの指紋は誰のなのよ」
不藤未来が慌てて訊いてきた。
「千鶴さんの左手ですよ。無くなったのは右手だけじゃあないんですよ。千鶴さんは三年前に事故で左腕を無くしている。勿論左手も。その左手はどこに行ったのか。そんなこと普通は考えないさ。なんたって三年もあれば腐ってしまうからね。ただ城崎家にあった大量の剥製。あれなら腐らせずに手を保存することが出来る。」
「そんな馬鹿げたことが……」
不藤未来は言葉を失った。城崎千里は静かに佇んでいる。伊江は続けた。
「千里さんはそうして保存した左手を使ったんだ。多分その左手はあの熊の中にあるよ。多分右手もそこに」
「でも、じゃあなんで、なんで右手を切ったのよ。佐々倉さんの時もそれで悩んでいたじゃない」
「それは……」
伊江が言葉に詰まった。仕方がない。
「コレクションですね、千里さん」
頭の中の黒い物が融けていった。重く重く溶け込んでいく。もう戻れない。
「そうです。あの子の手は夫のものに良く似ていました。それだけです」
これで全てが終わった。これで全て――
*
どうだっただろうか。これが今回の事件の全てである。これ以上に書くことはない。これで全てである。ただ、私は筆者として恐らく読者の望むであろう後日談を書くとしよう。
佐々倉は城崎千里が犯人だと気付いたらしい。それで、城崎千里を呼び出したものの殺されてしまった。これだけが悔やまれる。そして、城崎千里は警察の取り調べでこう語っている。
――あの子がアーチェリーを構える姿を見る度に私は胸が苦しくなりました。あの子がここにいるということは、彼がもういないということを明確に表していたのです。あの左手だけが私の心の拠り所でした。これは彼の残してくれたものだと。そう考えると、あの子の右手が妬ましくなってきたのです。駄目なことだと分かっていました。でも、そうするより他に私が救われる道はなかったのです――
私が事件の全てに気が付いたのは、城崎邸の大量の剥製を見たときであった。そして、夫のことを語る千里のあの表情。あれは私に確信めいたものをもたらした。しかし、彼女は依頼者である。これは事件以上に難しい問題だった。これ以上被害が出ないなら、城崎千里が犯人だと告発する意味は無いのではないか。ただ、佐々倉が犯人になるということだけは避けなければいけない。佐々倉の死は、ちょうどそう考えていた時のことだった。
伊江は全てが終わった後、君のせいじゃない、と言った。確かにそう思うことも出来るだろう。ただ、それは私が許さないのだ。私が探偵である限り。
次の日の朝、私が二階から下りると、机の前に珍しく伊江が黒いスーツを着て立っていた。
「和寸君。通夜に行くぞ。――誰って、佐々倉君のだよ。ほら、せっかく年がら年中黒いスーツなんだから」
伊江はピクニックにでも行くような気である。これだから、名探偵は嫌いなのだ。皮肉たっぷりに言ってやった。
「通夜は夜ですよ、伊江さん」